防具を外すのも億劫で、しばらくそのままいたけれど、そのうちその重みが感覚として戻ってきて、ようやく面を外した時にはすでに目の前の人は剣道着だけになっていた。手ぬぐいをほどき軽く頭を振ると、自然に一つ息がこぼれる。疲労感だけではない何かが思考力を奪っているのか、何も考えられない。
「あぁ、もう時間かの」
 ぼんやりした頭が、かろうじて拾い上げたそれ。誰かが来たらしいことは分かっても反応することが出来ないまま、ただ染み付いた手順通り防具を外していた。
「水口先生が、これをお渡しするようにと仰ってましたが」
 その手が、その声を捉えて止まる。
「さすがに気がきくのぉ。ワシはもう行かんとならんのでな、すまんが姫さんが渡してやってくれ」
「え、あ、辻口先生」
 いつだって一定の音階をすべるそれが、うろたえたように僅かに乱れたように聞こえたけれど、それは俺自身が動揺していたせいかもしれない。一体いつからいたのか。今このタイミングで、ここにこの人が現れるなんてさすがに偶然なんかじゃないんだろうけれど。俺と二人取り残されても、その人は立ち去る気配はない。防具を外し終えた俺もまた動く気にはなれなくて。どのぐらいそうしていたのか。なんだか急に可笑しくなった。出て行くこともない。けれど、近付こうともしない人を、無意識に探り追いかけている自分がそこにいることに。
「何?」
 思わず漏れた笑い声に、訝しむように語尾が上がる。
「いや、さすがのあなたも辻口先生相手には形無しだなと」
 振り返ったところで、そこにあるのはきっといつもと同じ表情だろうけれど。どうしてだろう。もうそれを冷たいと振り払ってしまうことが出来ない。
「まぁあのジーサン相手に敵うヤツもなかなかいないでしょうけどね」
 行儀悪く板の間にそのまま寝転がる。
「お前は?」
 問いかけるようなニュアンス。言葉が続くことがひどく不思議で。けれどやっぱりそれきり言葉はなくて、それもまたらしいと思う。
「足元にも及ばないって、知ってて言わせますかね」
 剣道という枠だけではない。何もかもが遠く及ばない強く大きな人は、もう一つの道を目の前に指し示した。
「そういうあなたが、嫌いだったんですよね。俺」
 いつだって真っ直ぐに射抜く瞳。隠しておきたい深い闇の部分を容赦なく引きずり出してしまう冷たさを無慈悲だと思った。
「憶えてます? 去年のバスケの総体予選であなたが何を言ったか」
 封印していた、それは痛烈な出会いの記憶。シーソーゲームだった準々決勝は、俺のシュートが外れて終わった。かけられた慰めの分だけ落ち込んでいた俺に、唯一向けられた冷ややかな一瞥。そして。
『最後まで本気でやらないならコートから出ろ。迷惑だ』
 名前と顔は知っていた。けれどただそれだけだったはずの人に、返す言葉がなかった。何も知らない人に、あのラストチャンスに勝つことに躊躇った自分を見抜かれた驚きは、澱のように胸のうちに留まった。
「自己嫌悪してる真っ最中に手加減も何もあったもんじゃない」
 後悔ではなく、それで一つまたあの人を辿ったと後ろ暗い喜びが存在していたことに、どうしようもない後味の悪さに苛まれていた自分を見透かす瞳があんまり綺麗で。
「初対面の相手にあれはないでしょう? 第一印象最悪」
 最初は無意識に逃げた。そしてそれはいつの間にか意図的なものへと変化した。嘘や偽りの通用しない人の前に立つには、全てを歪め、拒むしかなかった。そうしていられると思っていた。
『ガラスの破片が残ってたら化膿するって、知らないのか』
 その温もりに触れなければ、きっとまだそうしていられたのに。
『そうやって、目を逸らすんだな』
 逃げて、避けて、それでも俺を見抜いてしまう人に気付いてしまったから。
『凍ってるのは俺じゃない。お前だ』
 そうだ。認めるよ。けど、だからこそ分かる。あなたも同じ、何かを拒んでいる。
「つめてっ!」
 不意に首筋に触れた冷たさに跳ね起きると、それは首筋をすべり落ち手元に納まった。いつの間にか詰められていた距離。
「最悪で結構。嘘がつけない性分なんでね」
「げっ! 凍ってるじゃんか、これ」
「そう? 生憎と水口先生に押し付けられただけだから」
 気付かなかったなんて続きそうな憎まれ口は、いつもと変わらない。用事はすんだとばかりあっさり背中を向けた。俺はただ手の中のペットボトルを覆う水滴を拭う。凍ったスポーツ飲料は、もう少しだけ溶けている。
 もしも。本当にあなたを包む厚い氷に手で触れられるのが俺しかいないのなら。正人さんをなぞる俺ではなく、俺自身にあなたが押し込めてしまった感情を引き出せることが出来るのだとすれば。それは唯一残された俺自身の望み。けして許されるべきではない俺が望むには、あまりに強欲かもしれないけれど。
 笑った顔がみたい、だなんて。

 

 

 

 

 引き攣れたようなショップのロゴマーク。汚れて色の変わった赤いリボン。けれどそれさえ見ないフリをしてしまえば、中身はただ真新しいバスケットボール。しまいこんでいたそれを、何年かぶりに引っ張り出した。
 優しい気持ちの象徴、プレゼント。けれどそれは俺にとって、見るたび悔やむものであり、いつからか戒めるために見るものになった。だけど。
 何が欲しいって聞かれて、嬉しかった。誕生日を覚えていてくれた、知っていてくれたことが嬉しかった。笑ってくれた人が嬉しかった。それも本当だった。閉ざしたはずの優しい記憶が僅かな隙間からこぼれる。
『お兄ちゃんって、俺の誕生日には呼んで』
 温かかった指切り。守れないでいるままの約束。憧れた強い力を放つ瞳が、何も映さなくなったまま六年。
「正人さん。ちょっとだけ、いいかな」
 真実だけを映すその瞳の前。
「あの人を、俺が見ていてもいいかな」
 嘘偽りのない俺で立つことを少しの間だけ見逃して欲しい。俺がいるその意味をただ一度掴むまで。過去が足元を攫いに来るそのときまで。

 

 

 

 

「本気で言ってる?」
 持田先輩は心配そうに眉をひそめた。居合わせた役員もまた同様に眼差しで問いかけている。
「もちろん。そう見えませんか?」
「いや。そういうわけじゃないんだけど。ただ、前例がないだけに即答はしかねる」
「申し訳ありません。ご迷惑かけることになりますが、我侭通させて下さい」
「氷見の擁立って噂、もちろん知っての上なんだよな?」
 知っているという意思表示代わり、一度頭を下げる。ただの噂か、それとも事実なのか。そんなことはもうどうだってよかった。取るに足らないことだと、決して投げ遣りな気持ちではなく思う。
「それでいいのか」
「ご心配無く。勝ちにいきますから」
「自分が不利だとは、考えないんだな」
 独り言のような呟きは仕方ないとでも言いたげで、やっぱり俺を自信家だと認識を新たにしたに違いない。だから俺は笑う。
「断然俺の方が分が悪いですよ。それはもちろん分かってるんです」
 でも全力で勝負にいく。勝ちにいく。傲りとか自惚れとか、自信とか、そういうのじゃなくて。ただ勝ちたいと思うから。
「それじゃ、遅くなると吉丸先輩にまた何されるか分からないんで」
「東倉」
 踏み出した足が、追いすがるような声に呼び止められる。だけど。
「……先輩?」
 いいんだ、と頭を軽く振りそれきり言葉はないまま、けれどその目だけは違っていた。
『でも、東倉。本当にそう思ってる?』
 それは、そう問いかけたあの時の眼差しと重なって。
「持田先輩」
 伝えたいと思った。多分、あの人の強さと奥底にある脆さを知っているだろう人だから。
「俺、これでも案外慎重派なんで、自分が決めたレールの上しか歩くつもりなかったんですよね」
 真意をはかるようなその目に、応えたいと思った。
「だけど、そんな俺を打ち壊した人がいるんですよ」
 不満げに口元を歪めると、意外そうな表情になる。
「だから。俺、その人が他の誰より嫌いなんです」
 まだ、俺の中でせめぎあってる気持ちはある。本当にいいと思っているのかと、囁く声もする。だけど。
「負けっぱなしは、性に合わないんで」
 あの人の中にある氷を溶かせないのなら、その氷に混ざる水になって、もう一度触れたい。そのためだけに、俺自身の一歩を踏み出す。そう決めたから。

 

 

 

 

 取り囲まれることには慣れていたつもりでも、それは時と場合によるらしい。体育館への渡り廊下途中、充分予測可能だったはずの連中の来襲に、思わず空を仰いだ。用件は聞かなくても分かる。当然いつものように笑顔であしらえる、わけはない。
「耳が早いな。昼休みだぜ、持田先輩に会ったの」
「選管から連絡があったんだよ。事前の相談とかあったのかって。情けねぇったらないぜ、俺はっ。事前どころか事後承諾さえまだだってんだから」
「何でこういうことになったのか、説明してくれるんだろうな」
「だいたいヒガシ、お前はあの人相手にどうするつもりだ」
 言葉で、表情で、態度で詰め寄られる。納得がいかないと騒ぐ奴等の口を塞ぐには、俺自身が慌てるわけにはいかない。
「身勝手は認める。相談もせず勝手をして悪かった。ただ、悪いついでに今回は俺の好きにさせてくれ」
「好きにさせてくれって、お前」
「勝負、したいんだよ。俺は」
 例え正反対の位置にあの人がたっても、真っすぐに向えるように。誰かの影に隠れることも、逃げ込むことも出来ないようにして。
「俺の応援演説はなし。どんなに言われても変える気ないから」
 笑って、肩を叩く。
「逃げたくないんだ、俺は」
 あの人から逃げるつもりはもうない。俺は手の中のバッシュを握り締めた。追いかけるのは過程じゃない。
「勝たせてくれよ、お前ら」
 今はただ、真っ直ぐに。

 

 

 

 

 講堂に全校生徒は集まっていて、今頃はきっと持田先輩最後のお務め。その議事進行の場所にいないのは、候補者と応援演説者、それに選挙管理委員だけだ。候補者とその応援演説者はそれぞれ別教室に配置され、順番が来るまで待機。選管委員は一候補につき一人がついて、講堂まで引率する。わざわざそんなことをしなくても全員一緒の控え室で取り立てて問題はないんだろうが、そこが暁星というべきだろう。考えてみれば生徒会役員改選なんてのも、一つのイベントに過ぎないのかもしれない。
「そろそろ、時間かな」
 廊下を行き交う足音が、さっきから慌ただしく聞こえていた。持て余すほどには残っていないだろう時間。見もしないで手近の机に放りっぱなしにしていたプリントを思い出し、引き寄せる。眺めるようにかざしてすぐ、何度かなぞった視線が止まる。
「改選案内に応援者の名前がないな」
 生徒全員に選挙管理委員会から配布されるそれには、毎回必ず応援者までが明記されていた。それなのにこの紙切れをどこを探しても、候補者名以外は誰一人載ってはいない。『重本の応援演説に氷姫』の噂は直接には無関係の中等部までにとどろいている状況で、配慮と言うにはあまり意味のないもののような気もするけれど。
「あいつら、かね」
 一人で、と言い切った俺に、結局それ以上の反論はしないまま、けれどどこか不服そうだった連中の表情を思い出す。
「東倉先輩、準備お願いします」
 遠慮がちにドアが叩かれ声を掛けられる。見えない名前を捕らえるように、もう一度手の中で小さくなった紙切れを握り締めた。
「見ない振りは、やめるよ」
 あの人から視線を逸らさずいられるように。本当のあの人を見つけられるように。ただ、強くなりたい。

 

 

 

 

 後輩も先輩も同期達も、さらには教師連中まで。笑わせて、笑わせて、そして最後の最後は大真面目に。これが今の俺の精一杯。
「以上」
 マイクに向って叫ぶと、とたんに好意に満ちたひやかしと拍手に包まれた。のせられるように優雅なお辞儀で応えると、それはさらにヒートアップ。沸く講堂の中、俺はゆっくりと壇上を降りた。
「なんなんだよ、この盛り上がりは」
 そでに控えていた重本が、愚痴るようにそうこぼしたけれど、少しも口惜しそうには見えない。
「やりにくいったらねぇな」
 笑顔は自信の裏返しだろう。俺はその後ろに続くはずの人を探した。だけど。
「ちっとはヘマでもするかと期待してりゃ、お前の強心臓ぷりを再確認しただけだったぜ」
「ちょっと待て、重本」
「あ? なんだよ」
「お前、あの人は」
「あの人?」
 そこには誰もいない。ただ選管の担当者がいるだけ。
「応援演説は」
 口ごもる俺に、実に楽しそうに重本は口の端を上げた。
「いねぇよ」
「いない、ってお前……」
「噂は噂。そんなことお前の方がよく知ってるんじゃねぇの?」
「そりゃ。いや、だからちょっと待て」
「待てるわけねぇだろ。とりあえず行かなきゃだろうがよ。いちお、お前との一騎打ちなんだから」
 妙にさばさばした表情で、そのまま壇上へ向かうヤツの背中はムカつくぐらい余裕に見えた。
「ガセかよ」
 脱力感に倒れ込みそうになるものの、周囲の視線に踏みとどまる。
「やられた」
 冷静になってみれば見えたに違いない噂の真意に気付かなかったのは、当事者があの人だったからなんだろう。そしてそれをきっと持田先輩には完全に見抜かれていたということで。
「完敗、ってか」
 だけどそれも俺だと今は認められるから。
「それでも」
 拍手が聞こえた。どうやら重本の演説が終わったらしい。
「これが一歩目だ」

 

 

 

 

 投票が完全に終了するまでは、候補者は控え室に拘束される。それは投票権をもつ生徒も同様で、各教室から選管への投票箱の回収が終わるまでは出られないようになっている。一人きりの控え室は騒々しいだろう場所とは対極の静けさで、だからかすかなその音も大きく響いて届いた。
「お疲れ」
 顔を上げた先、ドアにもたれかかるようにして笑っていたのは持田先輩。
「終了報告放送はまだですよ」
「最後のお務めも果たしたしな。大目に見てくれよ、会長」
「まだ早いですよ、その台詞」
「あれ、本当。意外に慎重派だ」
 のんびりした口調のままドアを後ろ手で閉めると、そう眉を上げられた。
「ですよ。先輩ほどの策士にもまだ程遠いとも思ってますし」
「あぁ。あれね。どうせなら任期満了まできっちり務めあげたいって思うだろ? とはいえ策士策におぼれるなんて見本にならなくて良かったよ」
 意図的な情報操作を悪びれることなく認められると、先導された一番手の俺までつられて頷いてしまいそうになる。
 生徒会最後のイベントにするために、わざわざ氷姫応援の噂をたてる。絶対不利と言われている側につけることで、現状のままでは面白みのない役員改選が、あっという間に生徒全員の話題をさらうって具合だ。確かに同じ立場なら俺だって選択したかもしれない一手ではあった。ただ。
「よくあの人が何も言いませんでしたね」
 考えない手ではないが、持田先輩だったからこそ成り立った話だ。例えば俺だったならこうは上手く事は運ばなかっただろう。当人に否定されれば終わりなのだ。
「ま、付き合い長いからな」
 どこか遠い眼差し。俺には分からない何かがそこにある。
「だけど、きっとそれだけじゃない」
 静かに閉じられた深い瞳。
「そのぐらいは分かる程度には、な」
 次に見えたとき、それは凪いだような穏やかさに包まれていた。
「お前と、そうだな。宮みたいなもんか」
 だから妙な心配は無用だとからかうように付け加えられる。
「心配って、どんな心配ですか」
「いや、別に」
 大げさにため息をついた俺を楽しげに笑う先輩は、だからこそあの人との付き合いの長さだけでない何かを感じさせた。
 この人でさえ変えられなかった人。俺はどれだけ近づけるだろう。
「あぁ、終わりましたね」
 選管からの終了案内の放送が流れる。一斉に外へと溢れるざわめき。
「さて。天命を待ちますか」
 きっと時折、この不安は俺を揺らし続けるんだろう。それでも。たとえどうなっても、それを言い訳にしない。これだけは譲らない。
 あの人の感情が色づくまでは。

 

 

 

 

 踵の潰れたスニーカーが片方裏返ったまま転がっている。大人数が一斉に出入りするせいで、寮生の残っていないこの時間にはよくある見慣れた光景の一つだ。
「遅ぇよ」
 それを元の場所に戻して玄関をくぐると同時、真横からいきなり声をかけられた。
「遅刻ギリギリだぜ? 会長」
「だからまだ早いっつうの」
 生徒会選が終わるまでまともに近付こうとしなかった幼なじみは、あの日のことなど忘れたように躊躇いなく俺の隣を歩き出す。
「あぁ。でも当確だってんだから少々早くたって別に問題ないだろ。そんなことより、正式発表は今日の生徒総会でも、さすがにもう遅刻はまずいんじゃねぇの?」
 思わず足が止まる。あっさり手渡された情報に、漏れそうになるため息をなんとか飲み込んだ。選管しか知らないだろう情報が『そんなこと』で済まされていいわけがない。一体どのルートで漏れているのか。時折将来は新聞記者なんかよりゴシップ誌の方が向いてるんじゃないかと本気で思う。
「お前ね」
「それともわざとこの時間なのか?」
 不意打ち。かろうじて伏せはしなかったものの僅かに視線が泳ぐのを止められなかった。口にしかけた言葉は跡形もなく消えて、飲み込んだはずのため息が今度こそ零れた。
「なるほどね」
「何? 別に何も言ってねぇだろ」
 何もかも見透かされている気にさせられて、振り切るように踏み出したそれが、知らず早足になるのを止められない。
「ま、そういうことなら邪魔者は先に行くわ」
「だから勝手に決めんな」
 数歩分前にいた俺を言葉通り大きなストライドで追い越して。
「あぁ、そうだ」
 そいつは唐突に立ち止まる。
「会長就任祝いにとっておきのネタを教えてやるよ」
「なんだよ」
 正直それがどんなスクープでも、今の俺にとってはこいつと一緒に遅刻することに比べればどうでもいいことだ。ただあまりに邪険にすると余計に詮索されそうで、とりあえず先を促しておく。
「投票用紙」
 意味深に区切られたそれ。そして投げかけられた瞳は思わせぶりに瞬いた。
「あの人、お前の名前を書いてたぜ」
 聞き流しかけた言葉の意味が俺に届くまで、かなり間があった。捉えきれないまま幾度も繰り返し、ようやく捕まえたときにはどんな表情でも隠しようがないぐらい素になっていて。目の前のヤツはひどく満足げに笑った。
「あの人ってのが誰か分からないってなら、教えてやるけど」
「て、か。そんなことなんでお前が」
「なに、ガセだとでも言うつもりか? 暁星一の情報屋の証明は今さらだろ」
 確かに今さらだ。ただそれでもなお信じがたい事実だというだけで。
「いや、そうじゃなくて、だな。それがそんな大層なネタかよ。ただの気まぐれかもしれねぇのに」
「気まぐれ? へぇ」
 僅かに上がった口元に、諦め悪く避けようとして、完全に読み違えたことを知る。
「そんなもんあの人とは最もかけ離れたところにあるもんだって、お前が一番知ってるはずじゃねぇの?」
 改めて指摘されなくたって、それはもっとありえない。そうだけど。
「大体な。あの人が投票したってことが既にスクープなんだよ。言っとくけど、あの人が誰かに投票したの、これが最初で最後。今までただの一度だって誰にも入れたことがないんだ。白紙の無効票だったんだよ。あの宇崎先輩の時でさえ」
 知らなかったろ。呆れたような表情で見られても、応えようがなくて。ただもう完全に分の悪い自分を笑って誤魔化す。
「ま、もしあの人本人にきけば、絶対お前になんかいれてないって言うんだろうけどさ」
「多分? まさか。絶対、だ」
「だけど、今のお前はそうやって笑えるんだろ?」
 逸らせない視線に胸のうちにまで踏み込まれ、ホールドアップ寸前だ。もちろんそれを素直に認めてやるつもりはない。
「どうでもいいけど、お前、遅刻すっぞ」
「あ、やべぇ」
 慌ててみせてもそうは聞こえない。今から走ればまだ十分間に合うだろう。そんなことこいつはきっちり計算づくに違いないのだ。
「あの人によろしく」
 思わせぶりな台詞。言い置いたヤツは、だけど穏やかに笑んでいて。応えるように一度瞳を閉じた。

 

 

 

 

 鈍い音が、アスファルトを蹴り上げる足をさらに加速させるはずの残り約二十メートル。失速する背中を幾つか追い越しながら、けれど閉まり終わる門扉までの時間を計るのは多分もうこれきりだ。
「はよっす」
「おはようございます。東倉先輩、アウトですよ」
 居合わせた後輩がどこか申し訳なさそうな表情で、窺うように視線をやったその先。
「生徒手帳」
 いつもと変わらない、その人がいた。
「え、予鈴まだ鳴ってませんでした?」
 鳴り終わっていたことを知っていて返した言葉に、片方の眉が上がる。
「はい、はい。申し訳ありません」
 大げさにため息をついて差し出した手帳はすっかりクセのついたところで開かれる。いつもなら躊躇なく動く赤ペンはけれどピタリと止まったままだ。視線を落としたままその紙切れに気付いた人は何度かその瞳を瞬かせた。
「じゃ、そういういうことで」
 考え込むように動かない人の手から、手帳を奪い返す。その紙切れは押し付けたまま。
「ちょっと待て。まだ何も」
「美術鑑賞会代わりに辻口センセのお相手ってはずが、ただの補講扱いになってたんですよね。酷いと思いません?」
「それが俺にいったい何の関係が」
「モネもシャガールも分からない俺にナビゲーターなしでまともなレポート書けると思います?」
「だからそれが何で」
 綺麗な指先で紙切れにシワがつけられるのが見えて、俺はただ笑う。
「来てくれれば、ちゃんともう一度渡しますよ」
 憮然としたままの人の目の前で、ちらつかせた手帳をちらつかせた手帳をそのまま胸ポケットにしまい込んだ。
「何のつもりだ」
「いや、佐藤センセが『壊滅的な美術センスは氷見にレクチャーしてもらってもボーダーギリギリ』って言うからさ」
「知ったことか」
 理由なんてなんでもいいんだけど。
「いや、別に無理にとは言いませんけど。ただその場合はちょっとこれを渡すのは無理かな」
「どうせまたすぐ渡す羽目になるに決まってる」
「あぁ、その機会はもうないですよ」
 言い切られて、あっさり否定してみせると呆れたようなそれは不審げな眼差しに変わった。
「これが最後の遅刻ですから」
 まるで虚を衝かれたようなそれはどこか無防備なそれで、俺はひどく温かい気分になる。
「お前、一体何を企んでるんだ」
「企むなんて人聞きの悪い」
「それ以外に何がある。お前、俺を嫌いなんだろ」
 掠れた語尾が、まるで拗ねた子供のような台詞が俺を煽る。もちろん表情にそんなところは微塵もないけれど。それでもそれは間違いなく俺の背中を押した。
「だよな。そんなこと言ったよな、俺」
「ならわざわざ」
「でも、やっぱりあなたがいい」
 冷たくて、口を開けばキツイ。そんな氷で武装した不器用なあなたがいい。
「なに、言って……」
 真っ直ぐに見つめたその人の、瞳が僅かに揺れた気がした。
「あなたがいい」
 その瞳に今、俺だけが映る。レプリカではない、俺自身がそこにいた。
「だから」
「東倉!」
 正面玄関。それほど大きくはなかったけれどよく通るその少し高いその声に、呼ばれたのは俺でも反応したのはそれが聞こえた全員だろう。
「持田先輩が呼んでる」
 ふんわり笑った坂上は、俺とそしてその隣にいる人を見て笑顔をのぼらせた。
「仕方ない。この続きはそこで」
「だから誰も行くとは」
 言ってない。その言葉を、俺は聞かないふりをした。
 いつか、優しい気持ちで心の中を満たせられればいい。その鍵を俺が開けたい。そう言えばきっと冷ややかに一瞥されるだろうけれど。
「それでも、あなたがいい、か」
 直球すぎたそれに、思わず口元が緩む。
「さて。あなたはどうするのかな?」
 紙切れに書き込んだ場所、指定した時刻。あの人は来るだろうか。
「ま、保険はかけといたしな」
 胸の中の手帳を指で辿る。
「律儀で真面目だから」
 手帳チェックする為だけに赤ペン持参でやってくるに違いない。
「そんな始まりも、ありだよな」
 入場料が勿体無いなんて理由で連れ込むことは可能かなんて考え始めている俺に、待ちきれなくなったのか坂上が近付いてくる。
「また説教だよ、参った」
「そう? 全然そんなふうには見えないけど」
 そのまま爪先立てて背伸びした坂上はそっと耳打ちする。
「氷見先輩、まだこっち見てるよ?」
 良かったね。極上の笑顔を振りまかれ、振り返った俺に見えたのは固まってしまったように動かないまま俺と坂上を見ていた人。
「ちょっ、おい、坂上。お前、俺をコロス気か」
 もちろんすぐさまその人は背中を向けたけれど、一斉に向けられたままの視線はかなり痛い。
「なんで?」
「どっかで刺されたら、お前のせいだぞ」
 少々物騒な台詞も楽しげに笑う坂上に、俺はその手を伸ばした。何年かぶりに触れた髪は、変わらず柔らかくひなたの香りがした。
「ま、色々サンキュ」
「ん。ま、色々頑張ってね」
「おう」
 色々、に含まれているものに苦笑しながら俺は歩き出す。背中に感じる視線に、あの人のものを探しながら。

 

 

 

 

 どうして、俺はあなたに出会ったのか。
 何度遠ざけて、何度目を閉じても、あなたは俺の前にいた。
 誰より特別な人。
 俺を俺でいさせてくれる人。
 だから、いつかその氷をとかせたあなたを 俺に見せて欲しい。
 それだけでいいから。

 

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