煌びやかなイルミネーションを彩るように、白いものが目の前をちらつき始めていた。
 通り過ぎた学生服のカップルが『ホワイトクリスマスだね』とはしゃいでいて。
 青と白の電飾が散りばめられた目の前のツリーに、思わず足を止めた。
 クリスマス。
 ロマンティックな響きは、だけどまだ僕の胸を痛ませる。
 二人で一緒に過ごそう。
 果たせなかった約束。
 あれから、もう一年たつんだね。
 元気ですか?
 相変わらず忙しくしてますか。
 今はもう誰かの隣で、優しい時間を過ごしていますか。
 クリスマス定番の曲があちこちから流れてるけど、それはそっちも同じかな。
 だけど笑っちゃうよね。
 あの頃、近付くその日を楽しみにさせただけのそれが、綺麗だっただけのメロディが、
 意味をもって届く今の僕は口ずさむことすら出来ないんだ。
 笑顔も、声も、温もりも、色褪せないまま、思い出すのはただあなたのこと。
 ここにいないって分かっているのに、
 似た人を見つけるたび、いまだに息がとまってしまうなんて。
 あなたが知ったら、どんな表情をするんだろう。
 そうだよね。
 きっと困ってたって、知らないふりをしてくれるんだろう。そんなあなただから。
 今でもまだ僕は
 あなたが、好きです。

 

 

 


 小学校に上がる前に母が亡くなり、ほぼ同時に父の海外転勤が決まった。それでも父は僕を連れて行こうとしたらしいのだけれど、妹を亡くしたばかりの伯母の猛反

対にあって僕は辻の家にお世話になることが決まった。
 抱きしめてくれた父の温もりが、去っていくタクシーとともに消えてしまうと思わずその後を追いかけそうになった。そんな僕の手を温もりで包んでくれた人。
『多岐はもううちのコみたいなもんだ。ずっと仲良くしような』
 腰を落として覗き込まれた柔らかな眼差しと、強く握るそれとは反対に優しく頭を撫でる大きな手のひら。堪えていたものが零れて泣き出した僕を引き寄せてくれたあの日から、優しい従兄弟が誰より特別な人になった。
 兄弟のように育った優しくて格好いい僕の自慢の弘兄はだけど八つ年上で、どんなに一緒にいたくてもそれは到底無理な話だった。僕よりずっと先を、たくさんの人と歩いていく背中を見送ることは時折ひどく寂しくて。早く大人になりたいと歯がゆく思いながら、だけどそのせいで僕に特別甘いこともまた知っていて。年を重ねるにつれ、子供でいたいのか大人扱いしてもらいたいのか、自分でもよく分からなくなっていた。ただ、誰より大事にされているのは周知の事実。だから弘兄の一番近い場所にいるのは僕だという自負もあったし、どこかでそれを当然だと受け取っていたのかもしれない。
「多岐くん。今度の土曜の夜、弘文がくるって」
 玄関口。受話器を置くなり、珍しく出迎えの言葉も忘れ伯母さんは嬉しそうに笑った。社会人になって三年、自立すると宣言して実家を出た弘兄。僕が制服を着ていた頃までは顔を見せに定期的に戻ってきたのだけれど、ここ最近はそれも数えるほどで。よほど嬉しいのだろうと察しはしたものの、その弾む声に大げさだなとも思う。
「そうなんだ」
 離れて暮らしていても、僕には頻繁にメールはあったし、つい先週の日曜日にも一緒に映画を観に行ったところだ。
「先週は何も言ってなかったけどな」
 律儀な弘兄らしからぬそれに首を傾げた僕に、伯母さんはさらにその笑みを深くした。
「照れくさかったんじゃないのかしらね? 大事な人を連れて行くからなんて」
『大事な人』
 頭の中でその意味が繋がらないまま、いそいそとダイニングに向かう姿を前に、ただ呆然とするしかなかった。

 

 

 


 ダウンライトに照らされたカウンター席はどこかほの暗い。騒々しさとはかけ離れたそこにあるのはただ、カウンター後ろにあるグランドピアノの自動演奏と、僅かに漏れ聞こえる声だけ。穏やかな時間を楽しむ人たちの中で、僕はただ一人、目の前のグラスを睨みつけていた。
『多岐にはこれな』
 二十歳のお祝いにと弘兄が選んでくれたのはオレンジジュースとシャンパンのカクテル、ミモザ。カウンターに二人並んで飲んだ初めてのカクテルは、大人になった証明みたいで、もっとずっと弘兄に近付けたような気にもさせて。嬉しくて、ただ幸せだった。それはまだほんの一ヶ月前。
 あの時と同じ場所。だけど今、目の前にあるのはミモザではなく、あの時弘兄が飲んでいたダイキリ。
『ごめん。ゼミの連中と勉強会なんだよ』
 生まれて初めて弘兄についた嘘。
『たまには親子水入らずってことで、また今度。ホントごめんね。みんな、呼んでるから切るよ』
 言いかけた何かを遮って、聞こえる声を振り切った。何も聞きたくはない。もちろん今を逃れても、先延ばしにするだけで何も変わりはしないことぐらい分かってはいたけれど。
 一度口をつけたショートグラスのそれは苦いばかりで、少しも美味しいなんて思えない。近付いたと思ったのはただの錯覚。本当は、何も変わってなんかいなかった。どこまでいっても弟で、手のかかる子供。
「バカだよなぁ」
 思い上がりを消してしまうように目の前のグラスを一気に呷ると、時折カウンターから僕を窺うようにしていた人が目を見張ったような気がした。無関係な人のそれに僅かに溜飲を下げ、次に弘兄が何を頼んだか記憶の中の名前を手繰り寄せようとした。だけど。
 喉が熱くて、心臓はバクバクして。ちょっとふわふわする不安定な心許ない感覚に、ついさっきまで覚えていたはずの名前も出てこない。どうやらこれが酔った、ということなのかもしれない。しかも、たった一杯のカクテルで。
「格好ワルイ」
 自棄酒なんてつもりじゃなかった。ただあの日の弘兄を、あの時間をなぞってみたくなっただけ。だけど。
 頬杖をついて、空のグラスの縁を指先で辿りながら、その向こうにいない人を追いかけても思い出には逃げ込めそうにはなかった。今頃はきっと、幸せな表情で笑っている人を想うとそれはただ辛いだけで。
「まだ、帰れない、な」
 ギリギリの時間まで、きっと弘兄は僕を待っているに違いないから。
「ど、しよっか」
 僕はそっと瞳を閉じた。

 

 

 


 どこかで優しい声がする。少し甘めに響く低音。無条件で僕の全てを譲り渡してしまうそれに、笑みがこぼれる。
「酔ってる? それとも寝ぼけてる?」
 重くて開けられない目蓋にかかる前髪を払うように撫でられて、手を伸ばした先でぶつかった袖口あたりを掴まえた。
「弘兄」
 やっぱりだ。いつだって僕のこと、ちゃんと見つけてくれる。
「遅いよ」
 いつだってそこが僕の居場所。
「ね、勘違いだよね」
 だから。大事な人、なんていないよね?
「いいんだよね、僕は」
 僕はまだそこにいていいんだよね。
「多岐?」
 そう。そうやって僕の名前だけを、呼んで。
 袖口をそのまま引き寄せて、どこにも行ってしまわないように身体を預ける。
「大好き」
 誰にも渡さない。この腕は、この温もりは僕のもの。

 

 

 


 まだ薄暗い。そう思ってもう一度目を閉じようとした僕を引き止めたのは、僅かなカーテンの隙間から差し込む光に照らされた部屋の内装だった。
「あ、れ」
 まるでモデルルームに紛れ込んだような錯覚。無駄なものは何一つ見えない。見覚えのあるものもまた何もない。
 ベッドから飛び起きてカーテンを引くと、眩しいぐらいの光に包まれる。モノトーンを基調としたここは、もちろん僕の部屋でもなければ、弘兄のマンションでもない。
「ここ、どこ」
 寝室らしいそこを抜け出して踏み入れたリビング。皺だらけのシャツとジーンズのまま呟いたそれにも答えはない。
 整然とした、静かすぎてどこかよそよそしいその場所で、革張りの白いソファにかけられていたジャケットとショルダーバッグだけは確かに自分のものだということに僅かにほっとさせられはしたものの。
「なにが、どうなってんの」
 昨夜、あのショットバーで一杯のカクテルに眠りに誘い込まれたのは憶えてる。そして耳に馴染んだ低音に、手を伸ばして掴んだ袖口も。そして。
「そうだ、たしか」
 酔いに任せて何かを口走ったのも。薄ぼんやりした記憶を探りかけていた僕は、突然のそれに反応が少し遅れた。最近お気に入りのインスト。ダウンロードして設定したのは、ついこの間。
「え、弘兄?」
 そのどこかくぐもって聞こえる着信音に、慌ててバッグの中身をかき回す。フラップを開けばもちろんそこにあるのはたった一人の人の名前。
「あ、ひろ……」
「多岐!」
 呼びかけた名前は、一喝されるようなそれにかき消され、思わず携帯を耳から離す。
「お前っ! 無断外泊とはどーいうことだっ! えぇ?!」
 絶叫に近いそれは、それでももちろん十二分に聞こえた。
「おい、こらっ多岐! ちゃんと返事しろ」
 二十歳にもなる大学生をつかまえて過保護だと、伯父さんならのんびり笑いそうだ。そんなところもまた鬱陶しがるふりで、いつもならひそかに喜んでしまうはずの僕は、だけどこの状況に混乱していた。
「多岐! 今どこにいる」
 どこって。どこなんだろう。
『多岐』
 今分かったのは、耳障りよく響いたあの低音が弘兄ではなかったということ。だけど。甘く呼ばれた名前も、温もりも、願望が見せた夢だと言ってしまうには、今この現実はリアルすぎた。
 ローテーブルの上には見覚えのある緑色のロゴマークの紙袋とタンブラー。その下に滑り込ませたみたいなメモが一枚。
『朝食は食べること。帰りはオートロックなのでそのままで大丈夫』
 クセのない、弘兄とは全く違う字。
「多岐?」
 いつまでも無言のままの僕を訝しむようにトーンダウンする弘兄に、けれどなおその続きに目を見張る。
『PS.優しい夢は見られたかな』
 掴んだ袖口に、あの時何を口にしたのか。僕は全てを思い出していた。

 

 

 


 実は大学からそんなに離れていなかった見ず知らずのその部屋から帰宅するなり、厳しい視線と引き結ばれた唇で腕組みしたまま玄関に立つ弘兄に迎えられた。
「レポートやってたら、ついうっかり寝ちゃって」
 ゴメンと俯けば、結局僕に一番甘い人は拳骨ひとつ頭上には落としたものの、あっさりとその表情を緩めた。日曜の朝から弘兄がそこにいる嬉しい誤算を目の前にしながら、手の中のものが重く感じる。
「人が心配して待ってるってのに、多岐の食い意地ったら」
「あ、ひっどい、それ」
 目ざとく見つけて笑われたそれは、誰がくれたか分からないものだ。いつもの僕なら絶対にあのまま置いて帰ったのに、結局タンブラーだけを残してこれはそのまま持って帰ってしまった。
「母さん、腹ペコの多岐のためにコーヒーいれてやって」
 チーズとベーコンのクロワッサン。そしてタンブラーから香っていたあれは多分
「キャラメルマキアート、だったんだよな」
 どちらもお気に入りのそれに、やっぱり弘兄じゃなかったのかと思いたがる自分がそこにいた。だけど。
「無断外泊のお仕置きにブラックでね」
「あぁっ! ちゃんと謝ったじゃん」
 靴を揃えて弘兄の背中を追いかけようとして不意に目に入った、昨日まではなかった淡いピンク色した切花に笑っていたはずの口元が強張る。
 そんなこと有り得ない。その存在の痕跡に、現実を思い知らせるように。

 

 

 


 一体あれは誰だったのか。確認する術は全くなかった。マンションの玄関ドアにも、エントランスにあったメールボックスにも表札の類はなくて。あのショットバーに行ったのも二度目とはいえ、一度目は弘兄と一緒だったから知り合いどころか顔見知りさえいない。
 確かに夢ではなかったはずなのに、あっという間にあやふやになっていく記憶。日常に紛れ込むように曖昧になっていくその中で、だけど引き止めるようにあの時僕を呼んだ声だけが鮮明になっていく。
『多岐』
 夢か現かも分からないものだけが。

 

 

 


「え、あれ」
 構内の図書館。学生証の提示を求められ、探ったショルダーバッグに目当てのものは見つけられない。
「ない……」
 試験もかなり前なら図書館に来たのも久しぶり。このバッグのサイドポケットが定位置のはずのそれを最近出したといえば、弘兄と一緒に行った映画館ぐらいで。
「どこで落としたんだ」
 なくては困るものだから、紛失したとなれば再発行しかないのだけれど。紙切れ一枚、写真一枚を学生課に提出すると言うそれだけがもう煩わしい。思わずため息をついた先、不意にその可能性に思い至った。
「もしかして」
 繋がるかもしれないあの日に踏み込む理由を見つけて、迷わなかったのはただの好奇心なのか、それとも別の何かなのか。
 どう考えたって再発行の事務手続きの方がお手軽に違いないのに。
 マンションは覚えていた。部屋番号も頭にある。だけど顔も知らない人を探すのに、完全オートロックのエントランスで待つ勇気は僕にはなくて。結局、足を向けたのは、あのショットバーの重厚なドアだった。

 

 

 


 平日、そして幾分早いこの時間のせいだろうか。空席がかなり目立つ店内に流れているのはピアノではなく、静かに震える女性ヴォーカリストの声。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうで静かに笑んだその人だけが、あの時と同じようにグラスを磨きながらスツールへと僕を誘う。
「あの」
「こんばんは」
 そして思い出す。そこがついこの間醜態を晒したはずの場所だったということを。
「あ、あの。この間はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 今さらながら恥ずかしくて、一瞬しか顔を見られなかった僕に、わずかに笑った気配がした。
「いえいえ。可愛らしいものでしたよ。どうかお気になさらず」
 そうは言われても、気恥ずかしくて。ここに来るまで、この事実を忘れられていた自分が信じられない。
「さて。今日は何をおつくりしましょう?」
 気遣われるようにそう勧められて、ようやくもう一度お辞儀をしてスツールに腰掛けた。けれど、前回のような失敗はもうこりごりだし、かといってまだミモザを頼む気にもなれない。目の前にあるプレートを見ても、正直なところまるで分からなくて。
「甘めが嫌いでなければ、ピニャ・コラーダなんかいかがですか?」
 見慣れない名前の羅列を前に焦りを感じるより先、そう声をかけられた。
「ラムをベースに、パイナップルジュースとココナッツミルクを砕いた氷と一緒にシェイクするんです」
 弘兄よりまだ年上だろうか。穏やかなその表情とゆったりとした声に、どこか気負っていたものが剥がされていく気がして。
「それを、お願いします」
 僕はそのカクテルが出来るまで、その人の優美な姿をぼんやりと追いかけることにした。
「お待たせしました」
 コースターにのせられたロンググラス。ココナッツミルクの白に、鮮やかなレッドチェリーと扇状のパイナップルがピンでとめられてグラスのふちにかかっている。
「おいしい」
 グラスを置くより先にこぼれたそれに、目の前の人は僅かにその口元を緩めたように見えた。甘口だけど甘ったるいわけではない。一気に飲んでしまうにはなんだか勿体無くて、もう一度グラスを眺め見る。
「あぁ、それからこちらも」
 カウンターの向こうから差し出されたのはカクテルグラスではなく
「お預かりしておりました」
 間違いなく、僕の学生証。
「これ」
「申し訳ございません。大学へ連絡を差し上げようとはしていたのですが。間に合いませんでしたか?」
 言外に無用になったか、と言われているのは分かった。だけど僕が聞きたいのはそんなことじゃなくて。
「えっと。あの、これ。ここで落としたんじゃないですよね」
 決め付けてかかる僕に、その人の表情はなにも変わらないけれど、僕には確信があった。あの日の僕は、ここで鞄をあけたりしていない。
「この間の僕のお会計って、どなたに払っていただいたんでしょうか」
 次の日の学食で気付いていた。財布の中身が全く減っていなかったことに。
「ご存知なら、教えていただきたいんです」
 それなら支払ったのは別の人。そしてこれを落としたのはその人の部屋。弘兄からのコールに慌てて携帯を探ったときに違いない。
「お会計なら、気にされなくても結構だと思いますよ」
「いえ、そういうんじゃなくて。あぁ、いえ。それももちろんなんですけど」
 どうして執着するのか、自分でも分からないのに他人になんてもっと説明できない。学生証が戻ってきて、だけどそれでお終いにはどうしても出来なかった。
「えっと、ごめんなさい。無理を言ってますよね? 僕」
「そうですね。でも、まぁ分からないでもないですから」
 そう言ったきり思案するように口をつぐんだ人は、ドアの開いた気配にいったん視線を移した。そして。
「あぁ、柾也」
 促すように呼んだそれは、どこかくだけた口調。親しさを推し量るには十分だったけれど、それ以上にどこか楽しげで面白がるような何かが含まれて聞こえた。
「ソルティ・ドッグ」
 近付く足音に重なるように甘く響いたその声に、僕は思わず振り返っていた。

 

 

 


 ワックスで無造作に整えられたその髪は、どこか甘い顔立ちによく似合っている。弘兄ぐらいの年齢だろう。だけど黒シャツにジーンズという出で立ちはサラリーマンには見えない。ノンフレームの眼鏡もまた、その視覚効果を上げる小道具のようだ。多分、きっと自分の見せ方をよく知っている人。
 その眼差しを捉えたのか、捉えられたのか。ぶつかったそれに一瞬、見開かれたその瞳が狼狽して見えたのは錯覚だったのか。
「ん?」
 問いかけるような小さなイントネーションすら似ている気がして、何もかもが霧散する。だけどもちろんそこにいるのは弘兄ではない。
 目を逸らさないままただ見つめる僕に、その人は最後の一歩を僕の隣へ踏み出すと高めのスツールに難なく腰を下ろした。外されない視線をどう思っているのか、その横顔には不自然なほど柔らかな笑みが浮かんでいて読みきれない。
「はい、ソルティ・ドッグ」
 コースターの上、置かれたタンブラーのふちが綺麗に塩でデコレーションされている。
「それ、僕に支払わせていただけますよね」
 名前だけは知っているカクテルの定番を傾けていた人は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「あの日のダイキリの代わりに」
 戻ってきたその視線の先、学生証をかざしてみせると、その人は器用に片眉をあげて
「今日は眠ってないのな。新名君」
 甘い低音で、そう笑った。

 

 

 


「へぇ」
 大通りから一本奥に入ると、意外にも洒落たカフェやアンテナショップらしきものが続いている。街灯の下、僕はもう一度コースターの裏に書かれた地図を確認した。向かっているのは美容院。はじめまして、のそこで待っているのはあの人、浅倉さんだ。
「なんだかなぁ」
 実はいまだに釈然とはしないのだけれど、それがあの日のダイキリとの交換条件になったのだ。
『だってさ、親がかりな身分でおごるって、それ本当におごったことになんの?』
 財布を出した僕は、そうあっさり却下された。一理あるそれに丸め込まれそうになりかけて、いや、そもそも自分で払うつもりだったものを肩代わりしてもらったようなものなんだから、おごりではなく返金なんですと食い下がったものの
『やだね』
 そんな子供のような口ぶりで受け取ってはもらえず、もちろん最初から支払い不要と言っていた目の前のバーテンダーの人も笑うばかり。いったん出した手を引くことも出来ず、ため息をついていた僕に差し出されたそれ。
『それなら対価ってことで手を打つ?』
 代案の中身を聞きもせず、僕は一もニもなく頷いた。
『じゃ、髪切らせて』
 そんなことだとは思いもせずに。
「ええっと、もうこの辺のはずなんだけど」
 手の中にある、矢印で示された英字の綴りはEdge。その下にはもし分からなかったら連絡してと携帯番号と『浅倉柾也』と名前も書き込まれている。あの日残されていたものと同じ、クセのない字で。
 読めない人だ。酔って眠っているヤツの支払をし、さらに自宅に連れ帰って朝ごはんまで買って。その返金には応じずに、対価が髪を切らせることだなんて。
「わかんないなぁ」
 普通はしない。そんなオンパレードに、どうして泊めてくれたのかまずそこからだと意気込んで聞いたのに
『幸せそうに眠ってたから』
 オレの袖口掴んだままなと、そう笑われて。二の句が告げなくなったのは仕方ないと思う。だけど。それならあの時聞いたあの声はやっぱり夢だったんだろうか。
「こんばんは」
 不意にかけられた声。それが誰なのかすぐに分かったのに、どうしてだろう。どこか違和感が残る。
「こんばんは。浅倉さん」
「わざわざこんな時間に悪いな」
 そう。指定された時間はどう考えても営業時間外。練習台なのだろう僕はお客様というわけではない。
「看板下げちまってるから、分かりにくいかと思って出てきたんだけど。正解かな」
「ありがとうございます」
「昼間なら、もっとすぐ分かるんだろうけど」
 親指で後ろを指し示されたのは、総ガラス張りのせいで舗道にまで光がこぼれているビルの一階。辺りに見えるオレンジ色したショーウインドーとは違って、どこか無機質な白が印象的だった。
「新名君?」
 そう呼ばれて、僕はその瞬間違和感の原因を知る。同じような声で、呼ばれる苗字。初対面に近いこのスタンスでは当たり前のこと。そうだ。だからこの人があんなふうに僕を呼んだりするはずはない。
『多岐』
 愛しむように、優しく抱きしめられるようにやわらかな響き。
「なんか敷居が高そうなお店だなぁと」
 都合のいい幻聴を振り切るように、僕は首をすくめて笑ってみせた。

 

 

 


 白を基調にした内装は、いくつか見える観葉植物と柔らかな色をしたフローリングの床のせいか、思ったほど居心地は悪くはない。もちろんこれで女の子のお客さんがずらりと並べば雰囲気も変わって、違う意味で落ち着かなくなるのだろうけど。
 シャンプー台で襟足を洗われるとき、支えられた大きな手。だけどその指先は優しくて、ついうとうとと眠くなってしまう。
「ドライして切るから」
 そっと髪をかき上げられて、ブローが始まってもそれは続いていて。こんなことは初めてで自分でもちょっとどうかと思う。それでも結局鋏の音が耳元で聞こえるまで、それは収まらなかった。
「どんなふうにカットするか、考えてるだけで結構楽しめたよ」
 軽やかな音と、はらはらと落ちていく髪の毛。目の前の鏡に映る浅倉さんは、楽しげに鋏をいれている。美容師さんがどのくらいの技量でカットできるようになるのかは知らないけれど、こんなふうに嬉々としている朝倉さんを見ていると、カットモデルのなり手もなかなかいないんだろうなぁとぼんやり思う。
「心配?」
「え?」
「髪形より、オレの腕が気になるみたいだから」
 鏡に向かってそう笑われて、そういえばここに座って前を向いていながら浅倉さんばかり見ていたことに気付く。
「え、あ、ごめんなさい」
「いいよ。そりゃ仕方ないって」
 不躾さに恥ずかしくなって慌てて真っ直ぐ鏡の中の自分と向き合うと、そこにはつい一時間前の僕はもういなかった。
「暑くなるし、ちょっと軽い感じにしてみたんだけど。どうかな?」
 見慣れない自分は、ちょっと照れくさい。だけど、新しいそれは悪くなかった。
「じゃ、あと前髪だけ切って終わりだから」
 無意識に何度も目を瞬かせていた僕に、その答えを汲み取った人はそっと頭を撫でて、僕はそのままその瞳を閉じた。

 

 

 


 顔かたちが変わったわけじゃないのに、印象ってこうも違ってしまうものなのか。
「お疲れ様」
 クロスを払われて、しみじみしている僕を面白そうに見ていた浅倉さんと視線がぶつかる。
「あ、あのカット代」
「それじゃ話が元に戻るって」
 対価と言うからには、カットモデルか練習台だろうと思っていた。だけどこの出来上がりに否定せざるを得ない。何がどうだから対価だというのか。
「でも」
 静かな店内。僕の声を阻むようにバッグから聞こえてきた弘兄専用の着信音にはっとする。
「ほら、電話」
 隣のカット台に置かれていたそれを差し出すなり片付けを始めてしまう浅倉さんに、とりあえずいったん電話をとることにした。
「多岐? いまどこだ」
「ちょっと出てるけど」
 帰り道なのだろうか。どこか騒がしくて、その声も途切れがちに聞こえる。
「来週の日曜あたり、出てこないか。一緒にメシでもと思ってるんだけど」
「え、ホント?」
 一気にテンションの上がった僕が、勢いづいて返事をする前。途切れがちな電波は、だけどそれを拾い上げた。
『ね、大丈夫だって?』
 届いた高音に、膨らんでいた気持ちは簡単に潰れてしまう。
「大丈夫だよな? 昼頃にどっかで待ち合わせて」
 弾んでいた僕の声に、断るなんて選択肢は消えたに違いない。話がそのまま進みそうになって慌てて引き止める。
「弘兄、ちょっと待って。その日は駄目だよ」
「え? だって、今」
「ごめん。思い出した。先約あるんだ」
 やだ。会いたくない。弘兄の隣で、幸せそうに笑う人なんて見たくない。
「先約? ホントかよ。あぁ、兄貴なんてつまんないな。ついこの前までは優先順位一番だったはずなのになぁ」
 何気にこぼされて、泣き出しそうになる。
「何言ってんの」
 今でもそうだなんて、もう口にできない。
「仕方ないな。また今度連絡するから」
 そのときはもっと早く言うからちゃんと付き合えよ、と残されて。僕は誤魔化すように笑うしかなかった。
 来週の日曜日はどこに出かけよう。家にいるわけにはいかなくなった僕は、ない約束にため息をつく。
「駄目だなぁ」
 駄々をこねる子供みたいだ。そう思うのに、大人な顔してなんでもない表情して目の前に立てるほどには人間がまだできていない。唇を噛んで俯いた先、滲んで見えたフローリングは、だけどすぐに見えなくなる。
「せっかくの会心の出来、もちっと堪能させろって」
 視界を塞がれたやわらかなタオルは、その声のままに優しくて。余計に堪えられなくなる。
「しゃーねぇなぁ」
 震える肩をとられ、そっとその腕に捕らえられると、空っぽな胸の中みたいに真っ暗なそこに、温もりがともる。
「幸せって、笑ってるヤツんとこにくんの」
 その声が苦しくて。
「そんな顔してたら、捕まえらんねぇって」
 優しい声がせつなくて。
「……カット代」
 だから。
「え?」
 全部で縋り付きたくなった。
「支払い、ますから……」
「ん?」
「多岐、って呼んでもらっても、いいですか」
 今だけ、今だけと心の中で言い訳する。
「そんなこと言ってると、悪いヤツにつけこまれっぞ」
 そっとタオル越し頭を撫でられる。
「分かってる? 多岐」
 耳元に落ちたそれが逃げていかないように、僕はその背中に手を伸ばした。

 

 

 


 弘兄といた時間は、そのまま柾也さんとの時間になって。弘兄との距離が開いていく分だけ、柾也さんと近くなる。
 こんなの間違ってる。そう何度も思った。だけどこの時の僕に手放せるわけがなかった。どうしても必要だったのだ。柾也さんの存在が。柾也さんのその声が。
 成り行きで始まった、友達というには不釣合いでバランスの悪い関係を上手く表す言葉は見当たらない。だけど、それでもよかった。
「多岐」
 僕だけの腕の中。僕の名前だけを読んでくれるその声に浸る幸せ。
 全てに目を閉じていた僕は何も気付かなかった。

 

 

 


「フローズン・ストロベリー・ダイキリ」
 カウンターで待つこともそれなりに楽しめるようになっていた頃。待ち合わせに遅れた柾也さんが額に浮かぶ汗を手で扇ぎながら、お詫びにとバーテンダーの彼に告げたそれ。ダイキリという名前に、苦い記憶が揺り起こされて思わずしかめっ面を向けたのに。
「文句は飲んでからな」
 笑うばかりで取り合ってくれない人が面白くなくて、我ながら子供じみてると思わないでもないけど、そのままスツールを反転させる。けれどそれも目の端、ミキサーに苺とクラッシュアイスが入れられるのに興味をひかれてしまうと、それも中途半端な位置で止まってしまった。メジャーカップで何種類か追加されると、氷の砕かれる音とともに赤く色づく。
「お待たせしました」
 大きめのシャンパングラスにのせられたミントの葉と苺が一粒。シャーベット状になったそれに、添えられているのは二本の短いストロー。
「多岐、知ってる?それって二人で飲むんだよ」
 は? 真顔で目の前のグラスを覗き込んだけど。
「さて、じゃ飲もうか。多岐はそっちね」
「え、え」
 本当にホントなのか。助けを求めるように見上げると、その人はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「よくもまぁそんなことが言えるね、柾也。新名君、それは氷が詰まることがあるので短くしてあるんです。もう一本はもしものときの予備ですから」
 訝る僕にかけられた軽口はあっさりと否定され、なるほどと口をつける。少し甘めでフルーティなそれは舌触りはもちろん、以前に飲んだダイキリとは全く別物だった。だけどここで素直に美味しいと言ってしまうにはシャクで、そのまま黙ってグラスを引き寄せる。
「じゃオレはウォッカ・ギムレット」
 それでもそんな僕の様子に満足したらしい人は、そのまま自分のオーダーをすませると、頬杖をついたまま黙ってしまう。だけど。
「なに?」
 あからさまな視線を受け流してしまうにはまだ修練が足りない。水を向けた僕に、柾也さんは『いやいや別に』と否定しながら、前を向いたのだけれど。
「目が笑ってるってば」
 眼鏡の奥、物言いたげなそれに先を促す僕を
「そりゃ多岐といるからね」
 二の句が告げられなくなるそんな台詞で煙に巻かれてしまう。どうせ思ったとおりの反応をしてしまった僕を面白がっているに違いないのだ。
「あ、そう。はいはい」
「本気にしてないな。本当なのに」
「軽すぎ」
「これだよ。オトコの純情、秒殺」
 これみよがしにため息をついてみせた人は、置かれたカクテルグラスにすぐに手を伸ばした。
「たださ、多岐」
 半分のライムスライスが沈むそれは、柾也さんの手元までも薄い金色に染めているように見える。
「たった一度のチョイスで見向きもしないなんて、やっぱり勿体無い。だろ?」
 綺麗で、透き通って見えるグラスを傾けることもないまま、それだけだよ、と柾也さんは静かに笑った。

 

 

 


 二ヶ月に一度のペースだったカットも、『一ヶ月に一度が理想』という柾也さんのポリシーのおかげで定期的に整えられ、それと時期を同じくして大学で飲み会やイベントへの誘いがひきも切らなくなった。間違いなく柾也さん効果だと思うのだけれど、それと同じぐらいに増えたのが『どこの美容院で切ったの』と質問攻めにする女の子達だ。
「この間もしつこく聞かれたんだけど」
 薄いタオルがのっているせいで少しこもって聞こえただろうそれに、手を止めることなく柾也さんは相槌をひとつうつ。
「あんまり煩いから、口を割りそうになったよ」
 大抵の人は新規のお客さんはとってないみたいだと言えば納得してくれるのだけど、それがまた一部の女の子達から不興をかっているのだ。
「多岐は口が堅いから言わないよ」
「でもさぁ」
 いつも営業時間外の、さらには料金を一向に支払わせてもらえない僕が言うのもなんだけど、顧客って増えた方がいいんじゃないかなと思う。それなのに。
「多くなればなったで、色々あるからね」
 言外に面倒ごとは避けたいと言われては、それ以上は口に出来ない。
「さて、流すよ」
 ちょうどいい温度。優しい指先に梳かれるに任せていたそのとき、自動ドアの開く音と同時に鳴ったチャイムが来客を告げた。
「ごめん、多岐。このままちょっと待って」
 これで五度目になるけど、時間的なこともあって訪問者なんて初めてで。さらには視覚が塞がれているせいで落ち着かない。
「なに?菊池、忘れ物?」
 呼び捨てたそれは、だけど親しさというよりは事務的で。不明瞭な女の子らしい高い声が聞こえたけれど、それもひどく短いものだった。
 近付いてくる足音。ふわりと香った甘ったるいそれとともに、そういえばこの奥が事務所だったなとぼんやり思う。
「お待たせ」
 スタッフだったからなのか、途中だった僕のせいなのか。それ以上気にかける様子もないまま。
「お疲れ様」
 漂う香りを払うようにそう口にしただけで、柾也さんの手が止まることは、もうなかった。

 

 

 


 クリスマスツリーの足元に、積み上げられたプレゼント仕様の箱。サンタとトナカイ。赤と緑で彩られたショーウィンドー。昨日までハロウィンを一面に押し出していたはずのその変わり身の早さに思わず笑みがこぼれた。
「気が早いんだから」
 そう。まだ一月ほどあるっていうのに。
『クリスマスはどうする?』
 そう聞かれたのは昨日。しかも『どうする』の中にあるニュアンスはどう聞いてもどうするの? ではなくどう過ごそうかで。思わず吹き出した僕に、真顔で『何がおかしいの?』と聞いた柾也さんは、まるで小さな子供のように見えた。
「クリスマス、かぁ」
 薄手のコートの裾を握りながら、色とりどりのリボンでデコレーションされたガラスの向こうにそれを思いついたとき。
「多岐?」
 それはあまりに突然で、だけどこの上もないタイミングだったのかもしれない。
「びっくりした」
 振り返ることを躊躇ったのは一瞬。
「それはこっちの台詞だよ。しばらく見ないうちになんかオトナになっちまったっていうか、雰囲気変わってて。他人の空似かとおもったぞ」
 目尻に皺をつくって笑う大好きな人の隣。避け続けた現実がそこにはあった。
「従兄弟の多岐。こっちは高橋里香さん。えっと、いまその、なんだ」
「付き合ってるんでしょ。もーしっかりしないとフラレるよ」
 美人というよりは可愛いと言った方がぴったりくる彼女が、はにかむように表情をほころばせる。
「いつからそんな可愛くないクチきくようになったんだか」
「そりゃいつまでもお子様じゃいられませんって」
 これだよ、と大げさに項垂れて同意を求めるように向けるその瞳は優しい。
「一人なら、一緒に来いよ。ちょうどメシを食いにいく途中だったんだ」
「え、やだよ。馬に蹴られたくないし」
 お似合いだ。そう思う。
「なんだよ、それ」
「僕にだって予定ってもんがあるの」
「あぁっ。ホントつまんねぇ」
 不思議な気がした。あんなにも避け続けてきたはずの現実は、ほんの少しの寂しさは与えても胸を痛ませたりしない。
「兄貴より彼女優先とは生意気な」
 往来でその広い腕に抱き込まれ、髪を混ぜっ返されてもそれは変わらなかった。
「成長したと言ってよ」
 穏やかに凪いだまま。
「弘兄をよろしく」
 そんな台詞が口をついてしまうぐらいに。

 

 

 


 ずっと好きだった。それはもちろん今もそうだ。だけど。
「なんか、分かっちゃったなぁ」
 似てると思っていた声は、柾也さんの方が少し低くて。
 髪を撫でるその指先は、柾也さんの方が繊細で。
 抱きしめてくれる腕は、柾也さんの方が温かい。
 いつのまにか弘兄と比べるのではなくて、柾也さんを基準に見ていた自分。
 『多岐』と呼ばれて嬉しいのは、似ているからなんかじゃない。それが柾也さんだから。
「今さら、気付くなんて」
 曖昧な関係を、柾也さんがどう思っているのか分からない。特別不満があるわけでもない今を壊したくない。だけど。それ以上に柾也さんと僕を繋ぐ確かな絆が欲しいと思ってしまった。
「困らせる、のかな」
 サンタクロースには叶えられない願い事に、僕はまず勇気のアイテムを手に入れることにした。

 

 

 


「やっぱ、これがいいよなぁ」
 ネットで通販も考えないでもなかったけど、どうしても見て選びたくて探したショップ。見慣れないものに取り囲まれながら、そのアンティークなシルバーの皮で出来たシザーケースに目を奪われた。形はシンプルで、だけど皮がやわらかくて。似合う、と思ってしまったのだ。ただその分値段は気軽に手を出せる代物ではない。
「そちらはもうこれ一点だけなんですよ」
 かれこれ長い間そこで思案していた僕の背中を押したのは、結局そんな一言。
「プレゼント、ですよね」
 財布の中身を頭の中で確認しつつショルダーバッグを探る僕に、にこやかな声がかけられて、頷きつつもなんだか急に恥ずかしくなってそのまま前を向けない。
「お包みしますから少しお待ちくださいね」
 軽くなった財布とは裏腹に、どこか満ち足りた気分でいた。
「あなた、もしかして新名多岐?」
 そんなふうに名前を呼ばれて、その香りに邪魔をされるまでは。
 肩につくぐらいの茶色の髪を裾だけ緩く巻いている。化粧も洋服も派手目。それだけだと年上に見えないこともないけど、飾り立てているそれはどこか借り物みたいにそぐわない。
「あなたこそ、誰ですか」
 無遠慮な視線に、もしかすると年下なのかもしれないと思い直す。大学で『どこの美容室? 教えてくれたっていいじゃない』といくら断ってもしつこく聞いてくる女の子達の瞳と重なって。
「Edgeの菊池よ。ちょっと話があるんだけど」
 命令するようなそれに、思わず眉をひそめる。仮にも社会人。しかも店の名前を出すなら、この口の利き方はどうかと思う。常識知らずな女の子からは逃げるに限る。従う理由だってない。そう断ろうとした僕をまるで見透かしたように、彼女は挑戦的に笑った。
「浅倉チーフのことで」
 甘ったるい香りが、あの日の訪問者と結びつく。
「いいわよね」
 拒否することは、もう出来なかった。

 

 

 


 カフェに入るほど長居するつもりはない。そう言う代わりにすぐ近くに見えた緑のロゴマークに足を向けた。
「キャラメルマキアート」
 そう告げた僕の隣、鼻で嗤うように彼女はエスプレッソをオーダーした。
 窓ガラスに面したスツールから、さほど多くない人通りをぼんやり見ていると、すぐ隣にエスプレッソの深い香りに甘ったるいそれが混ざる。そんなのでエスプレッソが味わえるのかと意地悪く思ってしまうのは、さっき嗤われたせいなのかもしれない。
「ねぇ。あなた浅倉チーフの何?」
 トレーを置くなりの一言に、苦手だっただけのはずの感情はいっきに悪いものへと傾く。
「いきなり、ですね」
 答える必要はない。僕はそのまま知らぬ顔でカップに口をつける。
「朝倉チーフが時間外にカットしてるなんて。この目で見るまで信じられなかったのよね」
 僕だって、柾也さんがある程度の腕がある人なんだとさすがに気付いてはいたけれど。それはただ知らされて正直、嬉しいだけ。
「予約は三ヶ月待ちの人なのよ。コネとか嫌いだから、みんな大人しく待ってんの」
 何が言いたいのか、話半分でぼんやりしている僕に、苛立つように声が高くなった。
「友達の弟だっていうだけで、時間外に無理いうのやめてあげてくれない? 浅倉チーフはロンドン留学の話のこともあって、無駄な時間なんてないんだから」
 ロンドン留学。いきなり具体化したそれに驚きながら、だけどそんなことよりも僕を震わせたのはただひとつの言葉。
「知らなかったの? それじゃ別にさほど親しいってわけじゃないのね」
 なんて言った? 聞こえたそれに、ぐらぐらする。
「どうせお兄さんに無理言ったんでしょ? 口惜しいけどその髪形はさすがに似合ってるもん。すぐ分かったわ。浅倉さんのカットだって」
 甲高かったそれはまるで安心したかのように、香水と同じ、まとわりつくような口調になる。
「そうよね。いくらコネが嫌いな朝倉さんでも、友達の頼みじゃ断れなかっただけよね」
 友達の、弟?
「分かってくれた? あなただって浅倉さんにお世話になったなら、もう邪魔しないぐらいの常識はあるわよね」
 言いたいことだけ口にしたのだろう彼女がカップを手にしたのはほんの少しだけ。
「それじゃ。お願いね」
 勝ち誇ったような台詞に、僕は反論することも、それどころか身じろぎひとつすることさえ出来なかった。
 いなくなってなお残る甘ったるいそれが鼻について、目の前が滲んだ。

 

 

 


 信じたくない。信じられない。受け入れられない現実を前に、揺らぐ自分を押さえつけて踏み込んだのは主不在の弘兄の部屋。
 片付け魔の弘兄の部屋だけあって、目的のものはなんなく書棚から見つけられた。深い臙脂の布表紙に金の箔押し。同じものを僕も持っている。もちろん年度は違うけど。
 学生服を着た懐かしい弘兄の真面目ぶった写真を笑って見たことがあるそれを、今こんな気持ちで繰る日がくるなんて思いもよらなかった。まして探しているのは違う人だなんて。
「あら、多岐くん。こんなところでどうしたの?」
 床に打ち付けて倒れたその重い音に、我に返る。同じ制服。似たような髪形。溢れる黒に埋没しそうな中で、ただその名前だけを探していた僕は、伯母さんが階段をあがってきていたことにすら気付きもしなかったのだ。
「あ、うん。辞書を借りようと思ったんだけど、これ見つけちゃって。つい」
 閉じられてしまったそれを、何事もなかったかのように拾い上げて渡すと伯母さんは懐かしそうにそれを捲り始めた。
「この頃はもう随分と一人前な顔してたけど、やっぱりちょっとまだ大人の手前って感じかしらねぇ」
 手が止まったのは弘兄の写真だろう。指先がそっとその上を撫でる。
「この頃はお友達もたくさん遊びに来て賑やかだったんだけど、多岐くんは憶えてないかもしれないわね。大勢来ると恥ずかしがって、すぐに弘文の背中に隠れちゃってたから」
 そう言われると、そんなこともあったような気がする。みんなと楽しそうにしているのを見ているのは寂しくて。そのくせ誰かにおいでと呼ばれても、それにはしり込みして行けなくて。
「あ、でも多岐くん。弘文とお友達を間違えたのは憶えてないかしら?」
 聞き流しそうになったそれに、ぎくりとする。
「あんまり弘文が可愛がってるもんだから、皆も一緒になってお菓子やゲームで気を引こうとしてねぇ。でも全然駄目で、弘文はそれはもう得意気だったんだけど。浅倉君が『多岐』って名前を呼んだら背中に隠れてた多岐くん、顔を出したのよね。目をまん丸にして。弘文は絶対自分の背中から出てこないって思ってたみたいで、随分びっくりしてたわ。それで余計に面白がって浅倉君は何度も呼んでたわね」
 あの日、『多岐』と呼んだ優しくて甘く響いたそれ。
「みんなとても仲がよかったのに、進路が分かれるとなかなか時間が合わないって弘文がこぼしてたけど。それでもあの時笑ってた浅倉君が、まさかあんなに立派な美容師さんになっちゃうなんて」
 懐かしげに落とされたため息に、全てを知る鍵がある。そう何故だか強く思った。
「憶えてないな。ねぇ、どの人」
 震えそうになる声を堪えようとして、はねた語尾に唇を噛む。
「えっとね。確か隣のクラスだったのよ」
 ただ、苗字が同じだけかもしれない。ただ、声が似ていただけかもしれない。かすかな望みに縋るように、握り締めた指先。
「このコよ。ねぇ、ハンサムでしょう」
 『浅倉柾也』の名前の上。眼鏡のないその顔は、皆と同じようにどこか固い表情をしたまま。真っ直ぐにこちらを見ている人に、息が止まった。
「この前行った美容室で、雑誌に載っててびっくりしたわ。冬には海外留学だって書いてたけど、もう行っちゃったのかしらね。おばさんも浅倉君にカットしてもらったら美人になったかもしれないのに」
 どうやら冗談でもなさそうな伯母さんに、『それ以上に美人になるの』なんて笑って答える自分を、どこか遠くで冷静に見ている自分がそこにいた。
 目を逸らしたくなる真実を前に、だけどどこかで納得している自分がいた。

 

 

 


 そう。今思えばそれで全ての辻褄があう。きっと最初から気付いていたのだ。僕が弘兄の従兄弟だということも。そして、僕の気持ちにも。
 買ったばかりの紙袋の底にある白いリボンが目に痛い。
 友達の弟。それだけだったのだ。重度のブラコンの僕がこの年になってまだ兄離れ出来ていなくて。特別な想いを抱えたまま、ぐずぐずになっているのが可哀想だと思ったのだろう。もしかしたら兄代わりになろうとしてくれていたのかもしれない。だけど。
「柾也さん、だけど」
 わがままでごめん。だけど兄は二人もいらないんだ。
「教えて欲しかったな」
 もう少し早く知りたかった。僕が僕自身の気持ちに気付いてしまう前に。
 もう何もかもが遅すぎたけれど。
『あなただって浅倉さんにお世話になったなら、もう邪魔しないぐらいの常識はあるわよね』
 それが僕に出来る最後のことだというのなら、どんなことだって出来るぐらいには好きになった人だから。
「邪魔なんて、しない」
 ちゃんと笑える。送り出してあげられる。きっと。

 

 

 


「ダイキリを」
 コートを着たままそうオーダーすると、目の前の人は問いかけるような眼差しを見せたものの、笑ったままの僕にそれ以上は何も言わなかった。
 見覚えのあるそれがコースターにのせられるのと、ふわりと冷気が頬をかすめたのはほぼ同時。
「あれ、今日は遅れてないよな」
 コートを脱ぐより先に時計を確認しているその横顔は、やっぱり少し疲れて見えた。
「時間より早いぐらいだよ。でもそれって、日頃の遅刻癖の弊害だね」
 ねぇ、とカウンター向こうの人と面白がるふりで息を継ぐ。
「約束の時間に来てそれかよ」
 そうだよ。それが僕だったよね。
「呼び出して悪いんだけど、あんまり時間ないんだよね。だからこれだけ渡しておこうと思ってさ」
 ちょっと甘えたで、わがままで。
「ホントはクリスマスプレゼントにしようかと思ってたんだけど」
 自分勝手な、弟。
「実はさ、予定が入ったんだよね」
 本当はもっと違う気持ちで渡したかった紙袋を、ぞんざいに押し付ける。笑えてるかな。この上なく幸せそうに。
「おいおい、マジかよ」
「そーだよ。もー嬉しくってさ、地に足着いてないままコレ選んじゃったから値段あんま見てなくて」
 大好きな人に大事にしてもらいたくて。使っているところが見たくて買ったそれを。
「支払うときにびっくりしたよ。だけどまぁ今までのお礼ってことでチャラかなぁ」
 僕が見ることはないんだろう。
「僕の幸せの重みってことで。ああ、後で開けてよ。なんか気恥ずかしいし」
 見たら全部崩れてしまいそうだから。
「そっか。ハッピーメリークリスマスになったってか」
「そーだよ。羨ましがらずに、柾也さんも頑張るんだよ」
 カウンターに置いたままの携帯をぎゅっと握り締めた。
「きっといつか幸せは来るんだから」
 柾也さん、言ったよね。
「今の僕みたいに」
 笑ってるヤツのところに幸せは来るんだって。それが本当なら、僕のところにやってくるのは当分先になりそうだよ。
「あ、きたきた」
 約束の時間ピッタリ。響いた着信音に、柾也さんはきっと気付いた。
「ごめん。今すぐ行く。うん、え? 大丈夫だって。もー心配性だなぁ」
 その相手が弘兄だってことに。
「ごめん。早くしろって急かされちゃった。じゃ、もう行くね」
 コースターの上に、そっと置かれたショートグラスを口にすることなくそのまま見つめる。もう二度と、オーダーすることはないだろう。
「それじゃ」
 さよならと口にする代わり、僕は精一杯の笑顔で別れを告げた。
 仕方なさそうに僕を見送ってくれたその表情が、どこか寂しそうにも見えたのは、僕の未練のせいなんだろう。
 どうか幸せに。そう願える自分が誇らしくて。だけど笑っているはずの頬が冷たいのはどうしてだったのか。考えるつもりは、なかった。

 

 

 


 それから、携帯に柾也さんの名前が表示されることはもうなかった。柾也さんを知らずにいた日々を、自分がどう過ごしていたのか思い出せないほどそれはひどく単調で。声が聞きたくて、せめて姿が見たくて。抑えられない気持ちに流されて、何度となくあの店の近くまで行ったこともあったけれど、そのたび取って返した。だけど。そんなことを何度か繰り返して。雑誌で知った柾也さんの渡英に、僕は声を殺して泣いた。分かたれた道に、ついに遠い人になってしまったことを自覚して。

 

 

 


「気をつけて。いってらっしゃい」
 春には、柾也さんに続くように弘兄のアメリカへの海外赴任の話が決まって、それにあわせて慌ただしく結婚話が進んだ。
 ジューンブライド。雨が多くて花嫁泣かせの六月の花嫁。だけどその日は抜けるような青空。自慢の弘兄が、綺麗な花嫁にデレデレになってるのをひとしきり笑って、その幸せな旅立ちを見送った日。僕はひとり立ちを決めた。
 手の中にあるのは弘兄から預かった一枚のはがき。宛先はロンドン。宛名には浅倉柾也様とある。
『バタバタしてなくしたら大変だよ。僕が出しておくから』
 そう言って手にした結婚を知らせるそれ。
「ごめんね、弘兄」
 もちろんそれを投函するつもりはなかった。幸せだと思っていて欲しい。もうしばらくは。
 一人きりで、歩き始めるために。
 子供だった自分を、懐かしく思い出せるようになるために。

 

 

 


 吹き付ける風に、反射的に身体が震えた。
「寒っ」
 大きなクリスマスツリーを前に、気付けばかなり長い間立ち止まっていたらしい。足元がうっすら白くなっている。 
「感傷的になんのは、仕方ないか」
 苦い気持ちでもう一度その綺麗なツリーを見上げると、手の中の紙袋を持ち直す。
「飲んで寝ちゃおう」
 あれからカクテルは苦手になった。飲まなくても、ただそれを見るだけでどうしても思い出す人のせいで。
 だから今年はシャンパン。去年は何も考えられないまま掴んだのが赤ワインで。苦くてとても飲めなくて散々だった。とはいえ飲むことには変わりないってことだよな、と進歩のなさを笑いつつ踏み出した足は、だけどそこから一歩も進めなくなった。
「多岐」
 まだシャンパンも飲んでいないのに。幻聴が聞こえるなんて、相当に重症だ。そう思うのに。
「多岐」
 優しくて甘いその声に、囚われる。
「なんで、笑ってないの」
 笑えるわけ、ない。あの日から、本当に笑えた日なんて一度もない。
「ウソツキ多岐」
 すぐ目の前に、怒ってるような、困ったようなどこか複雑な表情をした人が見えて。
「会いたかった」
 ため息のようなそれが温もりとともに落とされると、絡め取られるようにその身を預けていた。

 

 

 


 1LDKのワンルーム。上背のある柾也さんがいると、ずっと狭く感じる。
「お茶でもいれるから、座ってて」
 エアコンをつけ、どうにもいたたまれなくて背中を向けた僕を天下の往来で抱きしめたその腕が引き止める。
「話があるって言ったろ」
 そう。そう言った人は、だけどカフェでもレストランでも、あのショットバーでもない。
「多岐の部屋に連れてけ」
 と一歩も譲らなかったのだ。行きかう人の多いその場所で、有名人だというそれを盾にして。
「なぁ。なんであんな嘘ついた」
「嘘、って。何が?」
 捕まれたままの手首が冷たい。
「オレの顔、見て答えろよ」
 言われて、ことさらゆっくり顔を上げると痛みをこらえるような眼差しにぶつかった。
「なんで俺はあんなに簡単に騙されたんだろうな」
「嘘、とか、騙すとかってそんなの」
「覚えがない? もしかしなくても、まだ知らないとか思ってる? 辻の結婚話ぐらい、さすがに日本を離れてても耳に入ってきたぜ?」
 逸らした視線を、だけど許さないとばかりに顎をとられた。
「ずっと好きだったんだろう? あいつだけが特別だったんだろう? オレの声を身代わりにしちまうぐらいに」
 知ってたのだ。やっぱり、何もかも、この人は。
「それなのにどうして、あんな嘘までついて」
 だって。でなきゃ柾也さんからは僕を見捨てられなかっただろう。留学の話だってあったあの大事な時期に。
「それともそれはただのオレの思い上がりで、そこまでして離れたくなるほど嫌われてたってことなのか」
「ちが……違うよっ!」
 自虐的なそれに口元を歪ませる人が切なくて。痛む胸の奥底で溢れるそれはこぼれた。
「邪魔、したくなかったんだ」
「なんの」
「全然、知らなかったけど。留学の話もあって忙しいのに、いつも無理に仕事詰めて会う時間つくってくれたんだよね」
 そう。何も知らなかった。
「それに」
「それに?」
「弘兄の従兄弟だからってだけで、泣いてる子供みたく、可哀想に思ってあやされるのも、もう嫌だったんだよ」
 漏れた本音に、柾也さんはまたどうしてと聞くから。
「兄さんなんて、そんなの僕は」
「オレも弟なんていらねぇよ」
 口にしかけたそれを引き継ぐように取られて、その意味に戸惑う隙間を埋めるように気付けば口付けられていた。

 

 

 


「まさ、や、さ」
 上手く唇が動かなくて。頭の中も混乱していて。
「ここで『なんで』とか聞きやがったら、マジで容赦しねぇぞ」
 そんなこと言われても。だって全然分からないのに。
「オレの邪魔してるって? 辻の大事な従兄弟だから? それからなんつったっけな。あぁ、可哀想っつったか?」
 吐き捨てるようにそう言うと、僕の瞳をのぞきこむ。
「多岐に会うだけで、声を聞くだけで癒されてたのに? なんでオレの邪魔になんの」
 そっと触れられる指先が、解いていく。
「多岐が辻のこと好きなのに気付いててなお、上手くいってないことを可哀想だなんて思うより先に喜んでたオレが? 辻に声が似てることを感謝こそしてるけど、別段それ以外は何の義理もねぇし」
 何度も誤魔化してきた、奥底に眠る想い。
「留学する前に、きちんと気持ちを伝えようと思ってた。だけどあの日、うまくいったと聞かされて、自分が多岐にとっての一時避難場所だったのを思い出したんだ」
 溶け出していく、柾也さんの温もりに。
「それなら困らせるのはいい大人のすることじゃないって、何も言えなかった」
 大人っていうのはやっかいなもんなんだ。つまらなさげにそう呟いた人。
「優しい兄貴の振りして別れたけど、それがいつまで続くか自信なんてなくて。留学で生まれた物理的な距離に安堵してた。多岐が幸せならいいって、自己満足に浸ってたよ。ついこの間まで。高校時代の友人がイギリスに来たときに、辻が結婚したの知ってるかって聞かされるまでな」
 結婚式にはもちろん弘兄の友達がたくさん来ていた。だけど留学先で忙しくしている柾也さんを気遣った弘兄は、葉書で連絡をするつもりだったのだ。そしてそれはまだ僕の机の中にある。
「どれぐらいオレが驚いたと思う? 辻は不誠実なヤツじゃない。しかもあんなに可愛がってた従兄弟を泣かせるなんてありえない。それなら何が本当なのか。どうしても知る必要があった」
 伏せた目元を撫でられて、泣いてる自分に気付く。
「結婚報告ぐらいしてこいって連絡したら、葉書ついてないのかって逆に聞かれたよ。宛先間違えたのかもしれないって辻は謝ってたけど」
 意味深に、区切られて。
「多岐。葉書、まだ持ってるんだろう?」
 向けられた笑顔は、だけどどこか揺らいで見える。
「一年たって、もしかして知らない誰かが隣にいるかもしれないとも考えた。そのときには、多岐が幸せならいいと思ってたつもりだった。だけど、いざお前を探してると全然そんな気持ちにはなれなくて。大人なら身をひけってなら、大人なんてクソくらえだ」
「柾也さ、ん」
「オレが、お前の隣にいたいんだ。他の誰にも、譲る気はないから」
 手を伸ばしても、いい? 僕で、いい?
「オレの隣で、幸せそうに笑っていてくれ」
 止まらない涙のまま、そっと柾也さんの頬に手を伸ばしたと同時。強く強く抱きすくめられる。
「返事は? 多岐?」
 そのまま首にしがみついたまま、僕はもう何度も頷いた。
「一年待った、クリスマスプレゼントだ」
 それは僕の台詞だと言いたいのに、漏れるのは嗚咽だけで。そんな僕の頭を撫でながら
「髪ももう、他のヤツに切らせんなよ」
 そう言って、柾也さんはその唇を落とした。所有権を主張するみたいに。

 

 

 


 雪はまだ降っているだろうか。
 ホワイトクリスマス。
 そんなロマンティックな響きが切なく聞こえたのがまるで嘘のように
 その腕は僕を優しく包んでくれる。
 笑顔で、声で、その温もりで、
 その全てで好きだと伝えてくれる。
 好きになった人に好きになってもらえる
 それは奇跡。
 好きになってくれてありがとう。
 探してくれてありがとう。
 だけど、僕こそあなたを探していたんだと今なら分かる。
 だからずっとそばにいて。
 大好きだよ、柾也さん。
 クリスマスの魔法が、一生とけないように。
 柾也さんの頬に送ったキスは、ずっと一緒の呪文の代わり。

 

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