「好きだ」
 どこか空々しいそこにあるはずの熱はない。
「なんて。そうだな」
 だからその続きに、ただ身構える。
「そんなこと言ってないし?」
 一瞬、その意味を掴み損ねるほど不思議にやわらかく響いたそれに、その温度差に背中が震えた。
「一度寝たぐらいで勘違いする、その辺の頭の悪いオンナなんかと同じなわけないしな」
 与えられない選択肢。暗にそれ以上を拒まれて、伸ばしかけた指先は行き場を失う。
 優しげな笑み一つではっきりと線引きしたその腕に、明日はまたきっと別の腕が絡みつく。
 服を着替えるように相手を替える。誰にも本気にならない葛井英一。
 知っていてなお彼の前に列を成す彼女達もまた、彼という存在をアクセサリーのように思っているのだろうか。
「楽しかったよ」
 それきり応えることのない背中は二度と立ち止まらない。感情なんて介在しない。彼の望むままのドライな別れ。
 それなのにどうしてだろう。皮肉気に上げた口元を僅かに噛み締めるような表情が、僕の心を掴んで離さない。
 置き去りにされ、傷ついているのは僕の方なのに。

 

 

 

 

「敦兄なんか、もう絶対当てにしない」
 何度かけても無機質なメッセージが繰り返されてばかりの携帯は、もうかれこれ前にジーンズのポケットに押し込んだ。多分見取り図のはずだろうそれは手の中にあったのだけれど、幾つか丸印が散らばった内の一つに『ココ』と矢印が伸ばされているだけの代物は、とてもじゃないけど全く用途を為さないままついさっき胸元に仕舞いこんだ。残された手段として、とりあえずどこかにあるはずの構内図を探しているのだけれど、それもまた見つからない。というより見つけられないのかもしれないと思う。
「うー。目ん中ゴロゴロする」
 いつもある視界を遮るものと引き換えにするには、この慣れない異物感は耐え難い。瞬きを繰り返して誤魔化してはいるものの、出来れば今すぐ外してしまいたいところだけれど。
「なんで言うこときいちゃったかな」
 つい一時間ばかり前まで僕の一部と化していたそれは今、一部どころか手元にすらない。
『コレは預かっとく』
 駅前のコインロッカー。聞き慣れた声に振り返るより、押し込んでいた制服の入った紙袋のロゴの輪郭がいきなりぼやけたのが先だった。
『え、敦兄?』
 意図の分からないまま問いかけるも、押し付けられたのは小さな箱と紙切れが一枚。
『洗面所行って、入れて来い』
 促されてようやく分かる。自分ですら忘れていたその箱の中身。勧められ押し切られるようにして買ったきり放置したままだったコンタクトを、どこから見つけてきたのか。
『いまどきこんな黒縁眼鏡、悪目立ちするだけだっつーの』
 言外に目立つわけにはいかないだろうと言われ背中を押されれば、どこか後ろめたい気分のせいかそれも最もな理由に聞こえたのだけれど。誰にも咎められることなく入り込んだ今となっては、集中力散漫のままこうやって目的地にたどり着けないでいることの方が重大だった。
「本末転倒だよ」
 こうして関係者以外立ち入り禁止のルールを踏み越えたこと自体、僕にとってはありえないことで、こうしてここにいる今も、こんな大胆なことが出来た自分に驚いているぐらいなのだけれど。途方にくれつつ諦めるという馴染みの選択は、それでも今回に限って考えもつかない。

 

 

 

 

 近所の人からスイカを貰ったのだと、抱えるほどの大玉のそれを手に現れた従兄弟は、エアコンのきいたリビングで美味しそうにアイスコーヒーを飲み干した。夏休みを前にすっかり日焼けしているのは、大学生活ですっかりはまったというサーフィンのせいなんだろう。
「ちーひろ。相変わらず真っ白だな。ちっとは外で健康的に遊べよ。今度、サーフィン連れてってやろうか」
「遠慮しとく」
 何度も読み直した雑誌を繰りながら、それでも返事をしなければするまで繰り返されることは過去の教訓として生きているので、とりあえず答えはするけど視線は上げない。
「なんだよ。また地味な……ん?」
 社交的で友達も多い従兄弟からすると、僕みたいなのはどうにもじれったいらしい。何くれとなく面倒をみてくれようとするのは子供の頃からで、嬉しくないわけじゃないけど僕には僕のペースがあるということをそろそろ分かって欲しいのが本音だ。
「地味でいいの。僕は敦兄とは違うんだから」
 覗き込まれた雑誌を奪い返すように抜き取ろうとしたものの、強引に押さえられて危うく破れそうになった。
「ちょっと、敦兄」
「あぁ、やっぱコイツだ。今度うちの大学来るぜ」
 大好きな書家、双葉さんをコイツ呼ばわりされ抗議すべく開いたはずの唇は、全く違う言葉になった。
「いつ? 何で? ホントに双葉さん?」
「え……、いつって、来週だったっけなぁ。文学部の一日特別講師で何かするって」
 矢継ぎ早の質問に気圧されたような曖昧さ。けれど一日講師ということなら外部参加は無理だろう。浮上した分だけ下降も早い。知らず乗り出していた半身を宥めるように、テーブルに小さな水溜りを作っていたグラスを手にする。微妙に薄まったアイスティーのグラスを回したら、その水滴がジーンズに落ちた。
「なんだ。千尋、そんなにコイツが好きなら午後の授業サボって忍び込んでみるか?」
 思わず顔をしかめた僕をどう思ったのか。けれどそれが誘いではなくただの軽口だということぐらいは分かっていた。思いもよらない僕の反応を面白がっていることが丸分かりのそこに真剣さの欠片もない。間違いなく『冗談だ、冗談』なんて一言が続いたはずだった。
「行く」
 後先考えずの即答で、僕がそれを遮らなければ。
「日程と場所、ちゃんと教えて」
 珍しくもすっかり固まってしまった敦兄は、何事か考えるようにぐるりと視界をめぐらせて、
「本気か?」
 と確かめるように問いかけたのだ。

 

 

 

 

 コンタクトと一緒に渡された紙切れが地図だと言われたときにちゃんと中身を確認すればよかったと今さら後悔してももう遅い。なにせあの時にはもう一つ念のためと差し出されたものの方に気を取られていたのだ。
「大丈夫だとは思うけど、ま、保険ってとこだ」
 手の中にある学生証にあるのは伊川敦之。けれどその写真は眼鏡のない僕だ。学生証を細工してしまった敦兄にとって、眼鏡を消してしまうことなど造作もなかったらしい。
「保険っていうより、個人的趣味の延長だよね。絶対」
 通り過ぎていく年上の人達の中で埋もれるようについたため息。学生証なんて役にもたたないものより、もうちょっとマシな見取り図が欲しかった。ここはもう一度だけかけてみるべきかと探った先。
『十三時五十二分デス』
 うっかり思わぬところをタップしたらしいそこから軽やかに告げられたそれに、一瞬固まる。
 聞き間違いだろうか。恐る恐る斜め前にある時計を見上げると、ここ来てすぐ見た時間と寸分も変わらない位置にその針はあった。
「えっ!?」
 認めたくないその時刻は、タイムアップ寸前。
「うそ……」
「嘘じゃねぇなぁ」
 思わず飛び出した声に応えるかのように、背中から不機嫌そうな声音が響く。
「誰が飲むよ、こんなの」
 独り言のようなそれに、思い出すのは背後にあったような気がする自販機。
「どっかの誰かがいきなり叫ぶから、こんなモン押しちまっただろ」
 そう言われれば思わず叫んだ瞬間、自販機から吐き出される鈍い音がしたような気もする。
「おいコラ。無視すんじゃねーっつーの」
 いきなり頬に冷たいものが触れて、反射的に振り返るなり押し付けられた南国フルーツらしきデザインのペットボトル。
「責任取れ」
 押し付けられるままつい受け取ってしまったものの、どうすればいいのか分からない。
「あ、あの」
「てかさ。三号棟前の時計が狂ってるって、いまだに知らないヤツがいるとはね」
 代金を支払えばいいのだろうかとポケットの中を探りかけたオレの手は、何気ないようにも聞こえたそれに動かなくなる。
「お前、ホントにココの学生?」
 持て余しそうに長い手足に広い背中。カラーリングでもしているのか色素の薄い髪は、少なく見積もってたった二つしか違わないはずの年の差を感じさせて、ついさっきまで忘れていた緊張感が胸元まで駆け上がる。
「あ?」
 払拭したくて突き出したのは、あの学生証。だけど。
「お前」
 捉えた輪郭は、どこか見覚えがあるような気がして。瞬きを繰り返し潤んだそれが焦点を結んだときには、そのまま固まってしまった。
 つい数ヶ月前卒業した暁星一の遊び人と名高い葛井英一。在学中にさえ遠巻きに見たことがあっただけのその人をこんなところで間近にするなんて偶然に、とたん証明されるもののはずのそれが緊張感を増すアイテムに変貌する。唾を飲み込む喉がぎこちなく、耳元でやたら大きく聞こえた。
「その用意のよさ、何っつーか慣れてる?」
 引くに引けないままのそれを、どのぐらい見られていたのか。
「ま、確かにとても年上には見えない」
 顔を上げた人は、からかうような眼差しでそう笑うと、まるで小さな子供にするみたいに頭を撫でられた。信じてもらえたとも、見抜かれたとも判別できないそれ。けれど手の中には無事に戻った学生証。
 同じ制服を着ていた頃があったとはいえ、学内外問わず知らない人はいなかっただろうこの人をその他大勢の僕が知っていても、その逆はないに決まっている。考えてみれば至極当然の現実に、例えそれがどちらにしても確証はないのだということに行き着いて、安堵しながらそれでも真っ先に学生証をしまい込む。これ以上の追求はどうやらなさそうだけれど、従兄弟の立場を思えばあまり人の目に触れられるべきものではないに違いない。それがもう意味のなくなった小道具ならなおさらだ。
 時間はもう過ぎただろう。せっかくここまで来たけれど、諦めるより他はない。脱力感のまま座り込みたくなったものの、いつまでも未練がましく留まっていると余計に気が滅入りそうでことさら両足に力を入れる。帰ろう。そう思った先。
「てか、完全に俺の存在無視してねぇ? 伊川さん?」
 どこか楽しげな声音が引き止めた。僕ではない名前で。

 

 

 

 

「キャンパスが違うからって、三年もいて迷ったりする?」
 何をどう答えても墓穴を掘るには違いなくて素知らぬ振りを装いながらも、どうにも止まらないとばかりに笑っているその横顔をちらりと確認し、果たしてこんな人だっただろうかと思う。名前と顔を知っていただけの僕が彼の何を知っているわけでもないのだから、その印象に戸惑うのもおかしな話のような気がするけれど、それでもやっぱり不思議だった。こうして並んで歩いている、ただそれだけで。
「はい、到着」
 本物の学生なんだから当然だけど、あんなに探していたセミナーハウスの扉は五分もかからず現れた。躊躇なく開かれたそこには棚に収まりきらない靴があふれ、聞こえてきたのは大きな拍手。開始が遅れているかもしれない、なんて都合よくはやっぱりいかなかったらしい。想定内の結果にゆっくりと吐き出したはずのため息が、胸の中に溜まっていくそんな錯覚にこぼれた苦笑い。
「諦めるのはまだ早いって」
 知らず俯いていた僕は、不意に掴まれた手首に身体が前へと傾いで、反射的に脱いだローファーが誰かの靴の上を転がっていく。
「え、ちょ……」
 混乱するまま上げた声は人差し指ひとつで押し戻され、目の前の閉ざされた空間を横切ると廊下の突き当たりに小さなドアがあった。探るようにゆっくり回されたドアノブは抵抗なく開かれて、その人は続く階段を迷いなく昇っていく。そして上がりきったところにも、もう一つのドア。入り口には『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙が一枚。けれど、そのドアをその人は躊躇いなく掴んだ。
「相変わらず管理が甘い」
 予想通りと言わんばかりに肩をすくめたその向こうには、何に使われるのか機材らしきものが積み上げられたお世辞にも綺麗ではない部屋。見慣れないものが散乱している中、恐る恐る辺りを見回す僕を、その人は小さな窓の前で手招いた。
「どう?」
 促されるように覗き込んだそこには、ついさっきまで届かなかった場所。
「ここって」
「放送室。あのホールの放送設備がここにあんの。あとは」
 無造作にあちこち触り始めてすぐ、側のスピーカーがオンになる。
「ラッキー。ちゃんと繋がってる」
 そこから聞こえてきたのは、講演中の双葉さんの声。真下に見えるまだ白紙の大きな半紙は、ここからどう見えるだろう。考えるだけでわくわくする。
「すごいや」
 窓枠に張り付くように憧れの人を追いかけてしまうと、もう他のものは見えなくなる。引き込まれるように夢の世界にダイブした僕は、そのまま何もかも忘れてしまった。

 

 

 

 

 白を埋めるのは墨の黒だけなのに、ただ一画の濃淡や勢いに込められた思いが伝わる。書き付けられた幾つかの書は、平面にあってなお奥深い。ここからではさすがにしないはずの墨の匂いまで感じるような感覚に浸りきっていたその時。
「やっぱ、いやがった」
 乱暴に開けられたドアの音と、投げるようなそれに一気に引き戻された。
「関係者以外立ち入り禁止って言ってるだろーがよ。」
「鍵、かかってなかったぜ? そっちのが問題だろ?」
 間違いなく不利な状況に、固まった僕の背中に悠然と答える声が届く。
「ここをラブホ代わりにすんのより問題なことがあるかっつーの」
 聞きなれない単語が意味を持つまで数秒は要しただろう。聞き流しかけてふと立ち止まる。
「えっ!?」
 勢いのまま振り返ったら、現金なものでさっきまで忘れていた目の中のコンタクトがずれた。
「いや、あの」
「あらら、葛井ってばいつのまに宗旨替え?」
 とんでもない誤解にまずは説明しようとしたものの、一気に全てのものがぼんやり滲んで意識が向かない。
「お前ね、まるでいつでも俺が盛ってるみたいな言い方やめろよ」
「あーそうでした。葛井のは据え膳を食い散らかしてるだけだよな」
「人聞きの悪い」
 それでも肯定も否定もしないまま鼻先で笑う気配に、高校時代に見かけた人がようやく重なる。
「その本日のお相手、ミスキャンパスの森本莉緒と約束あったんだろうがよ。いくら待っても来ないって怒ってたぞ」
「あぁ、そういやそうだったっけな」
「お前ねぇ」
 待ち合わせをすっぽかしたらしい人のそれに、驚いてその人の表情を追いかけたものの、今の僕に識別できるのはどうやら笑っているような気がする、という曖昧さ。無理やりお願いしたわけではないけれど僕にこの時間をくれたことは確かだと、なんとか口元を動かしたけれど。
「ま、いいさ。あちこち連れ回された挙句の品評会もいい加減うんざりしてたし」
 飽きた、と至極あっさりと言ってのけた人に、その言葉もどこかへ消えてしまう。
「は? お前、またかよ。一応、ゼミの準教授に呼ばれてたみたいだって言い訳してやったってのによ」
「そりゃご苦労さん」
「それで済ますか。お前今度の合コン、絶対出席な!」
「なんで」
 問いかけているようで疑問系ではない一言は、僕なら二の句が告げられなくなってしまうだろう威力があった。しかしそれも、どうやらここの正当な所有権を持っているらしい人には通用しないようだ。
「そりゃあれだろ、ここの使用料だな」
 至極まっとうな理由を提示され、完全な部外者枠の僕までもが納得とばかりに頷いてしまう。
「あ、そ。そういうこと」
 それはこの人も同じだったのか。随分と軽い口調に抗う様子もない。終わりの見えた会話に、最後に特等席からもう一度だけとそっと窓を覗いたけれど、そこはすでに後片付けに忙しく動く人と、あちこちで楽しげに話しこんでいる人しか見えなくて、僕の大好きなあの白と黒の世界はなくなっていた。
「て、聞いてる?」
 それでも目蓋の裏に焼きついている残像を追うように作品のかかっていた壇上を眺めていた僕は、だからそれが自身に向けられたものだと気付くのに遅れた。
「他人事みたいな表情してるけど」
「え? 僕?」
 慌てて向き直った僕のぼんやりした視界の中でも、こちらへ向けられた視線はなんとなく分かる。そしてどこか楽しげに笑ったような感じも。
「もちろん一緒に支払ってくれるよね、伊川さん?」
 投げかけられたとんでもない一言に、うっかり頷いた数十秒前の自分を思い切り後悔してももう遅い。
「ここの使用料って名目なら当然でしょう」

 

 

 

 

『連絡するよ』
 ジーンズのポケットに押し込んだままでいた携帯に、それを登録したのはその人自身。
『ケーバンなんて知らなくたってなんとでもなるけど。ま、一応ね』
 軽やかに操作しながら、連絡方法は一つじゃないと言外に匂わせられて。出来るなら携帯を取り返して逃げ出したくなる自分をなんとか押さえつけた。ただ一度、偶然会っただけの相手に面白がっているだけで、本気なわけがない。
『それじゃ、また』
 見送られて、だけどそれに応えなかったのが唯一の意思表示。
 ドライで、誰からも何からも距離を置いているような人にはそれで十分伝わったはずだった。だからきっと、たった一つの、しかも半分間違いの個人情報は使われることなく削除されるに違いない。帰り道、手にした携帯を手に僕は本当にそう思っていた。

 

NEXT